Tomonobu FujiiJapanese professional racing driver

Next Chapter藤井誠暢コラム

vol.1

男の約束と決意、
常に少し大きなコミットメントと有言実行で生きてきた

vol.1

男の約束と決意、
常に少し大きなコミットメントと有言実行で生きてきた

今日から本当の自分がスタートする。私はここで全ての決意を表現していく。

今日からボクは新たな自分を表現する。いや、新たでは無い。私と付き合いの深い方は、本当の私を知っているだろう。しかしそれは本当にごく一部の限られた方だけだと思う。実は私は究極のチャレンジャーだ。

ブログでもなく、SNSでもなく、こうして個人のウェブ書籍として文字として気持ちを執筆し発信したいと思う時期が来た。理由は簡単だ。タイトルにある通り、私は“常に少し大きなコミットメントと有言実行で生きてきた”つもりだ。私は言葉に出すときには、ほぼ実現できるイメージと既に物事がその先の見えないゴールへ向かって進み始めている時だ。逆にできないことやできるイメージが湧かないものは口にしないようにしている。言い方を少し変えれば、やりたいこと、実現したいことを敢えて口にするようにしている。

そして、2021年2月1日より、私は新たな藤井誠暢へ進む決意を決めた。すべて自由に。直感と思考で想うようにチャレンジしていく。タイトルにもあるが、今後はこのコラムを通じて、これまで表に出してこなかったD'station Racingチームマネージングディレクターとしての活動、そして、レースの世界の裏側。また、私が関わる様々なプロジェクトや他に展開するビジネスに関する逸話も、ウェブ書籍として執筆していく。

言うまでもなく、私の人生には小さな変化が大きな変化へと変わり、様々なチャレンジをしてきた。おそらく、このコラムを読んで頂いている方が知る私のチャレンジとは、表に見えているものだけであろう。砕いた言い方をすればレーシングドライバーとしての活動やリザルト、またそれらに付随する仕事やイベント、プライベートを含んでも、その程度だけだと思う。

今、私は空を高く飛ぶ凧のような気持ちでこのコラムを書いている。いつかこのコラムでも紹介するだろうが、私は自己のタイムマネジメントが完璧だと満足できるレベルでライフワークを過ごしている。特にここ数年は、表に見えている私の活動以外を含めると、一般的に言う10人分以上の仕事・業務を常にこなしていた気がする。いや、言い過ぎでは無いと自負する。独自で生み出した効率的なタイムマネジメントがあり、合理的に物事を進める方法を習得した。ある意味、私はとても直感的な生き物だが、一方では、とてもロジカルな一面もあると思う。このコラムの記念すべき第1話と言える「Vol. 1」を書くにあたり、私はとてもエキサイトしてキーボードに200%の集中力で今向かっている真っ只中だ。私は働きに働き、歩んできた単純な生き物でもある。だから、いかに24時間しかない一日を効率的に使うかも常に試行錯誤をして、自己のライフスタイルを模索し、結果として、今は一日が最低でも約28時間以上と感じられる合理的なライフスタイルとライフワークを確立した。これについては、いつかこのコラムに述べたいと思うが、私は毎朝4時からデスクに向かっているから、それだけでも朝7時起床する人より3時間も時間を稼いだ事になるし、静まり返った朝方に全開で大量のEメールやデスクワークをこなすのも好きだ。常に、私はYouTubeで好きな音楽を流しながら、自分のモチベーションを高く保った状態で200%の集中力で最速のタッチタイピングを目指している。

すべては妄想から始まる。妄想が想像に変わるとそのゴールへのフローチャートは徐々に進み出す

今日は特別な日だ。決めていた日だ。私には人生の様々な目標がある。そして、“私は常に変化を探している”。変化というのは成長の一歩だと思っているし、前進への第一歩だとも思っている。

そのすべては妄想から始まる。妄想が想像に変わるとそのゴールへのフローチャートは徐々に進み出す。もちろんノーアクションでは何も進まない。このウェブ執筆もその一つだろう。私は常に0か100だ。やるか・やらないか、中間は無い。SNSも同じだ。ここ数年は本当に忙しいの一言では表しきれない程、私には時間が無かった。ただレーシングドライバーとしてレースや仕事が多くて、毎日サーキットへ出張に行って忙しいのは、大した事ではないと思っていたから、特に何の問題でもなく、常に平常心を保ってレースや仕事で200%全力を尽くして突っ走ってきた。しかし、その他に対してはタイムマネジメントが必要であった。限られた一日の時間を有効に使わないと、28時間や30時間に増えた一日でも時間が足りない計算になる。だから全ての業務もメールも何もかも合理化が必要だ。時間の優先順位と言えば分かりやすいだろう。とにかく、私には大量のデスクワークもEメールも毎日あった。だから優先順位のプライオリティバランスを自ら整えてきた。それは、そのうち、このコラムでも徐々に紹介していこうかとも思っている。

さぁ、今日から不定期ではあるが、自分へのコミットメントをここで示す。示すと言うよりは表現するという日本語の方が適しているように感じる。私はレーシングドライバーとしても、一人の大人としても、一人の社会人としてもまだまだやりたいことが山のようにある。これまで私は思考を表に出さないように生きてきた。ただ、これからはスタイルを変えるつもりだ。これも変化のひとつである。

当然の如く、これまでは私はレーシングドライバーとして生きてきた。そして、つい先日、12月17日に私はついに40歳を迎えた。今は大変幸せな事に、この大好きな仕事、もっと砕いて言えば幼少期に憧れていた仕事で生計を立てることができている。本当に幸せだと思う。私の幼少期は野球少年を全開でやっていた。夢はプロ野球選手になることだったから、毎日野球をやっていた自分を思い出す。そんなヒストリーを持つ私が、今こうして野球界の大スターでアメリカ・日本で大活躍をされた佐々木主浩氏とご一緒にD’station Racingで仕事をさせて頂けることも、私の人生からしたら考えられない夢以上の話である。

幼少期の私は、もちろんモータースポーツにも夢を抱いていた。当時は頻繁に地上波テレビで放映されていたF1やGTレース、ル・マン24時間などをテレビ観戦していた。もちろん遊園地へ行けば大好きなゴーカートに何度も乗った事を深く覚えているし、アクセルを踏んでクルマが進む感覚というものに大きな刺激を感じていた。これは誰もがそうだと思う。そして、私は地元にレーシングカートコースができた事がひとつのきっかけとなり、レーシングカートという物の存在を知った。地元の書店で買った雑誌は「ザ・カート」。当時の私には夢のような本だった。遊園地のゴーカートより速いレース専用のカートは憧れても憧れきれないほど、カッコ良く見えた。そして、もちろん欲しくなった。

その後、野球の試合の帰りに、地元にできたレーシングカート専用のサーキット“瑞浪レイクウェイ”へ行った。そこで私は大きな衝撃を受けた。いや、感じたという表現の方がナチュラルだと思う。当時の私には適切な表現を表す言葉のボキャブラリーなど無かったと思うが、とにかくゴーカートとは比べ物にならないスピードで走るレーシングカートに一目惚れをしたのだ。そして、やはりこの時も妄想が始まった。「どうしても、これが欲しい」と。

母の口癖は、「自分のやりたい事は自分で考えて自分でやりなさい」

私は直ぐに母に相談した。しかし、返ってきた返事はもちろんネガティブな回答だった。今は更にパーツコストも上がり、マーケットプライスはもっと高いと思うが、当時の価格でも、中古カートで十数万円~新車は40万円ほどの値段だった記憶だ。ただ、40万円と言われると少しかけ離れるが、十数万円と言われれば夢はぐっと近づく。当時小学生の私でも、妄想から構想へと理論的にも進める数字であり、現実性が増す。

そして、私は新聞配達を始める決意をした。その後、実に小学5年生から中学3年生まで新聞配達を休まず続けたが、今思うとお金以上に良い経験になったと思うし、仕事へのメンタリズムを11歳にして学ぶ事ができた。しかも、学習塾の様に授業料を支払うのではなく、11歳にして月額数万円を稼ぐこともできるのだ。本当に良い社会勉強ができたと思っている。「働く=責任」という事を僅か11歳から学び始める事ができた。正に仕事の英才教育のようなものだ。そして、小学生版インターンシップとでも言えば今の時代に合うかもしれない。

その後、私はレーシングカートを始めたが、これも振り返れば幸せな事に、父母がサーキットへ来たのは最初の数回であり、その後は、ずっと一人だった。当時も今も変わらないが、レーシングカートは親子が深いパートナーシップで結ばれ無我夢中で未来のプロレーシングドライバーを目指しカートレースに没頭するのが一般的だ。ただ、私は一人でこの世界に入ったから良かったと今は心から思っている。だからここでも多くの事を学ぶことができた。当時は大人が中心の世界だった。子供一人で自分のマシンをメンテナンスしてレースに出ていたのは私くらいだった。大人から見たらただの一人の小僧。どうしたら中学生の自分がこの世界で協力者を得られ、チームメンバーに上手く溶け込むことができるのか。いつも考えていた。もちろん、速く走ることやセットアップも考えていたし、私はメンテナンスも全て自分でやっていた。単純にショップにメンテナンス代を払えばお金が掛かるから、全てを自分で勉強しながら弄っていたというのが正しい状況だったかもしれない。

そして、幸せな事に地元の同じカートチームの大人の先輩達に沢山可愛がって頂けるようになった。特に私は辺鄙な山奥で育ったので、サーキットへの遠征なども行く交通手段が無い。もちろん、免許証が無いから車移動もできない。それらの面倒を見て頂いた先輩S氏に出会い、その後、本当に沢山の事で応援をして頂き、父親のように可愛がって頂いた事を心から感謝している。S氏の存在が無ければ私は地元サーキット以外に遠征する事すらできなかったと思うし、S氏の存在が無ければカートレースでのステップアップすら継続できていなかったと思う。

誤解をされたくないが、別に私はご飯が食べれない程、貧しい生活だった訳でも無く、当たり前のように父母からは沢山の愛情を掛けられ、姉・妹との仲も良く幸せに生きて来ることができた。本当に感謝しかない。それは当然の気持ちだ。私も今は3男の父として、5歳、3歳半、2歳の子供達、そして7歳になる愛犬、更に今年の8月に結婚から10周年を迎える妻がいる。私は職業柄家を空けることが多いが、妻の手厚い支えのお蔭でやんちゃな男3兄弟を育てながら、家庭も楽しく進んでいる。本当に幸せだ。

自分の人生を振り返ってみると、「すべてを自分なりに用意してきた」。別に大した事では無いが、やりたいと思った事を、やりたいように自分なりのやり方でやって生きてきた。それは前述したが小学生からそうであった。もちろん、常にそれらを実現する為に、100%以上の努力をしてきたつもりではある。子供の頃の母の口癖は、「自分のやりたい事は自分で考えて自分でやりなさい」だった。これは今でも最高レベルに良い言葉だと思っており、私の頭には幼少期にこのフレーズが深くインストールされた。もちろん、私は我が息子達に同じ教育をしたいと思っているが、やはり私は親バカで子供にはとても甘い素質があるので、自分が成長していかなければならないとも思っている。

究極の現実主義者である事を意味する

自分なりの用意とは、幅広く言えば、レーシングドライバーだけでは無い、後にも表すだろうが、私は様々な事をしながら人生を自分なりに楽しくチャレンジしてきたつもりだ。もちろん、沢山の失敗もあるし、レーシングドライバーとしての表の姿以外にも、実は様々な事にチャレンジをしてきた。成功も失敗もあるし、武勇伝もある。

私は20歳の時、大都会の東京に憧れ突然上京した。まぁ、思い付きレベルの上京だ。これも妄想から始まったが、レーシングドライバーに憧れていた中で、もちろん、レースをする活動資金も無いし、スポンサーも探さなければと思っていた時期だった。田舎より東京の方が高収入の仕事も多いだろうし、チャンスも多いだろう。そんな直感的な感覚で上京したのが私の東京での生活の始まりだ。

もう少し言えば、前述のレーシングカートをしていた少年時代に、私は田舎コンプレックスも有った。今は大自然の田舎も大好きだが、子供の頃は電車があったり、お店が沢山並ぶ都会的な街に直感的な憧れがあった。

私は今でも景色や雰囲気が好きなので、少し長期の時間があると家族でアメリカへ飛んで、ロサンゼルスを拠点にカリフォルニアに滞在して、私の大好きな場所のひとつでもある景色の綺麗な海のあるマリブや、海岸線を縦に走るPCH(パシフィック・コースト・ハイウェイ)を走りながら大自然を見ているだけで、ワクワクするしモチベーションがオーバーレブ寸前まで高まる。

一方で、ドバイへ初めて行った時に感じた、超近代的な街並みとパームジュメイラやドバイマリーナ周辺のジュメイラの街並みのような、いかにも人工的に、そして機械的に作られたとしか言いようの無い未来的な街並みも大好きだ。

もちろん、ロサンゼルスとドバイでは特徴が真逆と表現できるほど異なるが、どちらも、私が目と心で感じるインスピレーションの匂いがとても良い。最高の匂いがする。偶然にもこのコラムを公開した数日後に、私はレースで再びドバイへ行く。今回もジュメイラビーチの周辺であり、ドバイマリーナも見渡せるお気に入りのホテルを予約した。ここも私にとってはナチュラルに好きな街のひとつだ。だから本当にいつか可能ならばどちらかに住みたいと心から思っているし、そのためにも、まだまだ全開で仕事をしていかなければならない。

話は戻るが、私は上京して最初にした行動が、書店で“アルバイトマガジン”を購入する事だった。開くページは、高収入。当たり前だ。地元を拠点にレーシングカートレースをやっていた自分が次に目指すのは、4輪レース。フォーミュラーカーレースだ。しかし、この時期の私はスポンサー活動などしなかった。

今でもそうだが、私は意外と自分から鏡で自分を見ることができる性質を持っている。平たく言えば、客観的に見た自分を自分で分析できると言おう。それはある意味、究極の現実主義者である事を意味する。私のこのコラムを読む方には、私はチャレンジャーだと表現しているが、“大のチャレンジ好きな自分とは対照的に、とても消極的な自分”が常に私にはいる。そのふたつの気持ちや思考が何事にも決断時にはバランスを取り合い、決断した方向に一気に進むのが私のやり方である。だから、消極的な自分が勝った場合や、そのようなインスピレーションがあった時は、足を止めるようにしている。

この20歳の時に、スポンサー活動をしなかった自分もそのようなインスピレーションからだ。当時の理由は簡単だ。ただただ、毎日企画書を作り、そんな私のような名も無いレーシングドライバーとも名乗れない若輩者がスポンサー活動をしても、同情で誰かが寄付レベルの協賛をしてくれるだけで、それをしても何も前進しないと直感的に感じていたからだ。

その必要額が、数千万や1億なら、20歳の自分で工面できるわけもないが、数百万~1千万だから、本気で働けば何とかなると、とても冷静に、そしてポジティブに考えた。ビジネスと同じで凄くシンプルな考えだ。当時は、中野区にある木造で隣の住人の電話の声が明確に聞こえるレベルのボロアパートに住んでいたので家賃は5万円。若者に必要な固定費など無いに等しいが、少なく見積もっても東京で生活をするにはミニマムで十数万円は必要である。それに加えて、レースをするのに数百万円が必要と仮定すると、月額50万円~70万円を稼がなければならない。この状況下においてスポンサー活動だけを全開で行っていた場合、収支は不明だ。不明と言うよりは未知数だ。簡単に言えば、利益の出ない事業に大きな固定費を掛けて、延々と同じ方法で事業を続ける経営者と同じで、それでは前進しないし、前進しない事はメンタリズムとしてもネガティブ方向にしか進まない。進むというよりは目標に対しては逆走するようなものだ。

そもそも、それでは家賃すら払えない。小学生でも計算できると思うが、収支が合わない。だから私は先のイメージができないと直感的に感じた。妄想が妄想で終わってしまうスポンサー活動より、妄想を構想へ変えられる、「働く=稼ぐ」へ頭をシフトして集中して仕事をすると決めた。特にこの上京をした1年はレースができるチャンスもなく、だからこそ、その決意をした。

すべてを合理的にリザルトへ繋げる方法と、そのメンタリズムを学んだ

とにかく、働いて翌年にレースができるようにしよう。そして、目標の羽根つきフォーミュラー(今でいうF4)に乗りたいと。当時の私は前述の目標的な数字をこうかみ砕いていた。とても20歳らしい単純な計算式だ。月額60万÷28日平均=日額2.2万。ようするに、目標額を日当2.2~2.5万円に設定した。そして、私は上京して最初に買ったアルバイトマガジンの高収入ページから日当1.5万円+歩合の通信回線の営業マンを始めた。まぁ今思えばこの手のビジネスは今も昔も複数あり、当時(2000年代前半)はマイラインという電話会社選択サービスがブームであり(今でいうネット回線の営業のような単純な代理店式ビジネスモデルだ)、「電話会社回線会社を指定すると電話代が安くなり登録費も掛からない」という今思えば何でもないサービスだが、当時は各電話会社がこのサービスに力を注いでいた。故に、1次代理店、2次代理店、そして、3次だか4次だか5次だかわからないような代理店が複数存在して、活発な営業戦争が起きていた。そして、私が東京で行った最初の仕事がこの戦闘的な業務となった。

代理店が無数に増える理由を少し明かすと、当時マイラインの登録は無料で電話代が安くなるサービスを取り合っていたが、単純にコミッションが良かった。確か1回線1万円ほどの代理店へのコミッションがあったと思う(正確では無いが、1次代理店はその辺の数字だったと思う)。だから多くの会社が参入し、同じ通信会社の代理店が同じビルで次々と遭遇するほど、活発な営業戦争が都内の全てのビルで起きていると言っても過言ではないほどの状態だった。実に私も目標の数字を稼ぐためにこの仕事を始めたのだが、それはそれは毎日心が折れる事の連続だった。

考えてみれば当然である。1日に何度もインターフォンが鳴り、同じ「〇〇〇通信会社の代理店の〇〇です」という営業マンが連発してインターフォンを鳴らす訳で、企業や住人からしたら、たまったもんじゃない。それはそれはハードルが高い仕事だった。

毎日150件~200件を目標に営業を続けたが、営業の方法として、会社から伝えられたストラテジーは、「地図を持ち、決めた地域・区画のビルを上から下まで全てのオフィスフロアや雑居ビルに営業にいく」という、とても単純で戦略性の全く無い営業をするのが仕事だったから疲れる訳だ。“正に数打ちゃ当たる”。平凡なストラテジーというか、ストラテジーなど存在しない原始的な営業戦略が軸だった。

私は前途したが、とてもポジティブな思考を持っている。負けるのも大っ嫌いだ。負け続けるとネガティブな自分になり自信も無くなる。負け続けたり、結果が出ないと強い人間でも必ず凹む。当たり前だ、そんな強い最強の人間など存在しないと思う。私は強がりに見えるかもしれないが、実はとても弱い人間だ。だからこそ、負けないように自分のメンタリズムを常にコントロールしている。常にポジティブに進むように考える。営業が上手く進まず、お昼休みに公園のベンチで肩を落として弁当を食べながら、難しく考え、自分の思考がネガティブになるのがとても嫌だったし、毎日メンタリズムが安定しない生活ほど辛いものも無い。

変化と工夫、物事を作り上げていく事が好きだ

私は効率的に結果を出したいと考え、直ぐに営業方法を勝手に変えた。それは仕事を始めて2週間が経過した後だ。凄く単純なアイデアだが、私は作業着での営業へと切り替えた。理由は簡単だ。私はスーツを着て、ネクタイを締めて、ビジネスバッグを片手に、汗と冷や汗をかきながら、常にエレベーターの最上階ボタンを押して最上階へ登った後、非常口階段を使って一階ずつ下階し、一社一社インターフォンを鳴らしながら、飛び込みにて営業をしていたからだ。理由は後に説明する。

このマイライン全盛期は本当に営業戦争が激しく、お客様からしたら、「もう登録した」「うるさい」「もう営業をやめてくれ」、当たり前だが、こんな言葉しか返ってこない。もちろん、笑いのネタにしかならない営業経験もある。俗に言う“暴力団事務所のような会社”に飛び込み営業をしてしまう確率は当然のようにある。私はドアを開けた瞬間、バケツで水を掛けられて怒鳴られた。まぁ、仕方ない、これも巡り合わせの一つであるし、同様の営業が続けばほぼ全ての会社はこのような気持ちになるだろう。私はこれを「罰ゲームのようなロシアンルーレット」だと思っていた。そして私は、このリザルトの出ないサイクルから早く脱出して合理的な営業をしたいとも思うようになった。そう言うとカッコ良く聞こえるが、ただ単に同じ時間を使って仕事をするのだから結果を出したかったという事と、効率的に結果に繋げて稼げないかと考えた。

何が問題で営業がうまく進まないのかをじっくりと分析した。これはレースにおいても同じだろう。セットアップが決まらないマシンで100周走っても、セットアップが決まったマシンが1周で簡単に出すタイムなど破れるわけが無い。私はこの営業における問題点をこう考えた。『同様の代理店が複数存在し、同じワンパターンの営業を繰り返しているから、そもそも相手が話を聞くまでの状況になく、むしろ警戒感と怒りが先行している』と判断した。

そして、他と同様のスーツでの飛び込みスタイルの営業がゆえに、リザルトに繋がらないと自分なりに分析をした。そして、前述した通り、作業着に切り替えた。ちょうど勤務先会社がオフィス機器のリースを事業の主としており、工事作業をする部隊もあった。

作業着を着て、クリアファイルを片手に営業を始めると、リザルトは変わった。まるで、これまでアライメントが狂っていて真っ直ぐ走らないマシンを気合いと根性の精神論で、アンダーステアやオーバーステアと格闘しながら冷や汗までかきながらドライビングをしていたのに対し、とてもグリップレベルの高いタイヤを履き、スタビリティの高い完璧にセットアップが決まったレーシングカーに乗っているかのように、苦労せずニュートラルに結果が出る。余談になるが、私が自身のレース活動においても、セットアップや車両開発、物事を作り上げていく事が好きなのは、これと同じである。合理的にリザルトに繋がるからだ。

負け続ける自分から勝ち続ける自分へと変化していった

新たな営業戦略を得た私は、勝てないチームから連戦連勝のトップチームのドライバーになったかのように、毎日の営業が楽しくなり目的の電話回線契約も次々と決まっていった。理由は簡単だ。私の考えた営業戦略はシンプルである。前述の『〇〇〇通信会社の代理店の〇〇です』ではない、『工事会社の〇〇〇の藤井と申します。只今、マイラインのご登録の漏れが無いか確認で回らせて頂いております』というトークと営業内容に自分で変えただけだ。別に嘘ではく、この営業会社は述べた通り工事部門もあった。

この少しの変化と工夫により、私は毎日のストレスが無くなり、“負け続ける自分から勝ち続ける自分へと変化”して行った。その気持ちを分かりやすく表現するならば、レースをする前から、自分だけグリップする最高銘柄のタイヤを履き、誰よりも有利なBoPで、更にタイヤ無交換でピット作業も早い最強のレーシングマシンを手に入れたレーシングドライバーのような状況だ。もちろん、努力はしている。

そして、この変化により何が変わったかと言うと、しっかりと対面できる。自分を伝えられる。人間性も見せることができる。当たり前だが、飛び込み営業は入口ですべてが終わってしまう事が一般的だ。しかし、私の仕事に対する姿勢やこのサービスのメリットを正確に伝える事ができれば、必ず契約へと繋がる。もちろん、当たり前だ。当時登録無料で電話代が大幅に安くなるサービスだったわけで、しかも営業マンが全ての申し込み用紙の記入も手伝ってくれるし、印鑑を押す作業くらいで、何も手間など無い。私は営業スタイルに工夫を加えた事で、実際に商品サービスを正確に伝える事ができ、多くの方々に喜んで頂けた。

中には、飛び込み営業先の会社に入って直ぐに、社長らしき方から、「兄ちゃんいい目してるね。気に入ったから、全回線あげるからここで休憩してゆっくり書いていきな」と言われ「一社で60回線」も貰った経験もある。

私は日当1.5万円+歩合の為、日当が数万円に跳ね上がる位だが、勤務先代理店からしたら単純計算で60万円が入る訳で良い仕事をした事になる。他にも「うちの会社で働かないか?」とか毎日のようにあった。当たり前だが、毎日沢山の会社を回っていれば、色々と出会いはある。

その後、私は更なる収益性を考え、別の会社の請けでフリーランス型の営業に切り替え、その後、レーシングドライバーとしては、目標だったF4を何とかやり、LIANさんと戸田レーシングさんのスカラシップでご支援を頂きホンダ主催のフォーミュラードリームを戦った。

もちろん、当時はまだレースで生活などできないので、他にも様々な事をやりながら時間と生活、レースとのバランスをとっていた。そして、今の自分の会社を起業したのは23歳の時だ。当たり前だが、当時はレーシングドライバーのマネジメント用の法人ではなく、独学でウェブ関連の勉強をしていたので、ウェブマーケティングの仕事を始めた。こう言うとカッコ良く聞こえるが、私は営業経験も沢山あったので、魅せ方、伝え方が得意であった。

単純にフリーランスのデザインナーやプログラマーをネットワークして、業務委託のスタイルで連携を取り、プロジェクトをマネジメントしていただけだ。今でも私のウェブサイトを運営してくれているH氏は、当時からの私の仕事のパートナーの中の一人であり、20年近くの関係になる。しかし、笑えるのが未だに1度しか会った事が無い(笑)。しかも、ネットで連絡を入れて吉祥寺のカフェで概要を説明して交渉しただけで、その後はメールベースで仕事を行ってきたから、正に、20年近く前から、現代のコロナ禍では当たり前と言えるリモートスタイルを既に実行していた事になると言えば、少し聞こえが良いかと思う。

某先輩に言われた一言「最低でも1000万は稼げないとプロとは言えないからな」

もちろん、当時22歳~23歳のレーシングドライバーにはレースでの収入などない。正確に言えば、レーシングドライバーという名刺を持てるレベルでは無いと思っていたし、理解していた。後に、私がSUPER GTで優勝した頃に、尊敬するレーシングドライバーの大先輩と初めて仕事をする機会があり、その後の食事会の席で言われた一言が、今でも深く記憶に残っている。「藤井はレースで1000万位は稼げてるのか?」「最低でも1000万は稼げないとプロとは言えないからな」と言われた。もちろん、私はそのような社会人的な感覚を持っていたので当然だとは思っていた。確かにそうだと思う。この不安定なレーシングドライバーという職業には様々な経費や移動費、諸経費も必要な為、先輩が数字的に言われた内容は的確と言える。

当然ながら、レースに出させてもらえるチャンスを得ることができてもレースでしっかりと生活ができるようになったのは、20代中盤以降であった。私は幼少期から何かを用意されて生きてきたわけではなく、自分で用意しながら進んできた。前途で読んで頂いた通りの道筋だ。だから常に高速道路や新幹線で目標の目的地にダイレクトに最短距離で進めたのではなく、鈍行電車を乗り継いだり、遠回りの山道を通ったり、そんなサクセスストーリーという言葉など関係しない、独自の道筋で少しずつ前進を続けてきたつもりだ。世の中には遅咲きという言葉があるが、何をもって遅咲きというのか私には理解できないし、まだ私は咲いたことが無く、この先に大きく咲きたいと心から貪欲に思っている。

だから私はレースも真剣にやっていたし、食べて行くための仕事も様々な事に挑戦した。特に誰にも言っていないので、当事者しか知らないだろうが、インターネット卸のマッチングサイトも自ら企画して、ネットを通じて創業ブレーンを募って、プログラマーを募って、企画と仕組みを考えて、実際に運営を開始した。単純に当時アフィリエイトビジネスが始まり出した頃で、ドロップシッピングも伸びていたから、卸を仲介するサイトは便利で需要があると考えた。このサービスでも私の仕事は意外と地道だった。広告、PR、ダイレクトメールでの営業。SUPER GT 2年目位までは、こっそりと、このサービスも運営しており、その後、お蔭様でレーシングドライバーとしての目標額が稼げるようになり、生活が安定した後に売却して手を引いたのだ。

その後、自分の会社はレーシングドライバーのマネジメント会社として、メーカーとの契約やスポンサー契約、インポートメーカーとの仕事のベースとして運用している。他にも上京してからのこの約20年の間に様々なサービスや会社を作ったが、今もずっと23歳の時に自分で定款を書き、行政書士を使わず自分自身で登記した1つ目の法人には思い入れがあり、1月決算である弊社はつい昨日第18期の決算を迎え、今でも私のマネジメント会社として運用している。

2021年2月1日が意味する変化

さぁ、本日は、2021年2月1日。私の中で何の変化があったのかと言うと、「それは、次の自分へのコミットメント」である。

私は常にコミットメントをするようにしているし、物事が実現するはるか前には、それらに対する、少し大げさなコミットメントや、その雰囲気を発信しているはずだ。常にそうである。小学5年生で新聞配達を始めてカートレースに13歳でデビューをした時も、地元の友達には、新聞配達を始めてカートレースに必ず出るとコミットしていたと思う。4輪レースへステップアップする時も同じだ。そして、現在、私がチームマネージングディレクターを務めさせて頂いているD'station Racingのチーム創設も同じであるし、2021年の我々の最も大きなトピックスはFIA世界耐久選手権シリーズ(WEC)及び第89回ル・マン24時間レース参戦であるが、これに関しても同様である。

後のコラムでも沢山の機会で登場して頂くつもりだが、私はアミューズメント事業を経営するNEXUSグループの創業者でありグループ代表である、星野敏氏と共にD'station Racingをスタートした。そして、前途した通り、我々のチームの総監督は、あの“大魔神”と言われる佐々木主浩氏である事は説明の必要もなく、誰もが知る事実だろう。

プロレーシングドライバーとして以外の自分を公式に表に出すと決意したのは、この新たなウェブサイトのフルリニューアルがひとつのタイミングであり、このコラムの企画を考えているうちに新しいインスピレーションが湧いてきた。そして、私は後に述べるが、特に契約関係や時間的な拘束なく自由に歩むと決めた。同時に何も気にせず本当の藤井誠暢を丸出しにするとも決めた。私は特に面白い発信やネタを提供できるタイプでは無いが、ありのままに想いや気持ち、考えを発信していこうと思う。

前提した通りのタイムマネージメントも理由のひとつとして、SNSも極限まで「やらない・見ない」と決めていた。しかしそれも含めて今後は少しずつ変化し、InstagramTwitterで情報を配信していくと決めた。

追記として、ひとつお知らせもしたい。私は、個人的にSNSでフォロー返し等をしないと決めている。理由はシンプルだ。特定の人だけにフォロー返しをするのは、気持ちの良いものとは思えない。だから、基本的にSNSは投稿時にスマートフォンを触る程度で、それほど見ていないし、フォロワーの確認ページを覗く十分な時間もない。だからこそ、最近スタートしたInstagramもD’station Racingのアカウントだけしかフォローしないようにした。当件も誤解の無いようにご理解を頂きたい。

さて、多くの方々はD'station Racingでの私の仕事はただのプロレーシングドライバーとして、見た目通りのイメージをして頂いていたと思う。当然だ。私はこれまでの長いレースキャリアにおいて、『レーシングドライバーとしての藤井誠暢の活動』をメインとしてきた。だからこそ、前途した様な、他の仕事や他の業務は一切表に出さないようにあえてしてきた。特に、近年は複数のインポートカーメーカーの主催するエクスクルーシブ系イベントにも頻繁に出演させて頂いており、複数のブランドの色を敢えて出さない方がいいとも感じていた。それはそれぞれのメーカーさんに失礼の無いようにするひとつの私なりの立ち振る舞いである。

しかし、そんな私が、この2月1日を起点に新たな決意を決めた。

別に何も自分自身の生活も考えも、仕事面もレースに対する取り組み方も、プロレーシングドライバーとしての仕事も、レースへの勝利に対する拘りも、プロフェッショナリズムも何も変わっていない。当然だ。私はこれまでも私が他で展開してきた仕事やビジネスプロジェクト等、誰にも言っていないし、このレーシングドライバーとしての公式ウェブサイトやSNSで表に配信するわけも無い。だから、ある意味、何も変わっておらず、「本当の自分を有りのまま出すと決めた決意が変わった位で、そんな大した話ではない。」

ただ、これからは今以上にやりたい事を自由にやり、プロレーシングドライバーとしての活動に加えて、様々な事をやりたいようにやって行くことに決めた。これこそが『男の決意』である。

WECへの挑戦も同じだ。もちろん、このD'station Racing としてのWECへの挑戦はとても高いハードルが沢山あった。2017年にSUPER GTやスーパー耐久を中心としたD'station Racingが立ち上がった時よりもはるかに多くのハードルがあった。しかし、私はこのタイミングで必ずWECをやると決めていた。もちろん、今はコロナ禍で渡航制限も多く、この先のレーススケジュールも見えない。更に海外ではコロナの感染も拡大している。今も現状、様々なハードルが現実的にあり、毎日のようにヨーロッパとのやり取りを続けている。

私は常にコミットメントをしてきたと何度も述べたが、これが本当の本題に当たるかもしれない。

敢えて失うことが次へ進む一歩だと直感的に感じた

前途した過去の私はどうでも良く、この2021年シーズンに向けて、私は実際に多くの変化をした。

例えば、これまでレース活動や、車両及びパーツ開発業務に走行イベント関連等、日産車でレース活動をする時もあれば、SUPER GTでは長い間、インポートメーカーに関わる数々のマシンに乗ってきた私の活動をご理解頂きながら、契約ドライバーとして長年起用をして頂いたNISMO(ニッサン・モータースポーツ・インターナショナルさん)とのドライバー契約を双方協議の上解除し、私はよりフリーランスの形態で進む事にした。

NISMOでは本当に沢山の仕事や車両開発の業務をさせて頂き、サーキットイベントやドライビングスクールの講師業務も、市販車パーツの開発やレーシングカーの開発、主にはZ34RCやGT-R のカップカーと言われたClub Track Edition、そしてNISSAN GT-R NISMO GT3など、私のような人間に各部署の方々から多くのチャンスを頂き、本当に沢山の仕事を経験させて頂いた。

近年ではNISMOドライビングアカデミーの立ち上げから、ミハエル・クルム校長の指揮の下で副校長として、NISMOロードカーに乗るお客様に対して、スポーツドライビングの楽しさやドライビングスキル向上のお手伝いを沢山させて頂き、本当に楽しい毎日が続いた。

レーシングカーの開発業務で言えば、私はFIA-GT3が到来した初期からポルシェやアウディ等のヨーロッパで最大勢力を持つインポートメーカーのマシンでのレース経験が豊富にあり、実際にGT-R GT3のデビューとなった2012年に近藤真彦監督の率いるKONDO RACINGさん&日産自動車大学校さんの共同プロジェクトと並行して、7年間に渡り、スーパー耐久でGT-R GT3に乗せて頂き、その進化やアップデートされる車両と共に、様々な経験をさせて頂いた。一昨年2019年のニュルブルクリンク24時間にもKONDO RAINGさんより参戦し、初めてのニュルブルクリンクで貴重な経験もさせて頂いた。しかも、特にこの現行型となるMY18年式のEvoモデルは、国内での開発テストにも参加してきたので、そんな思い入れのあるマシンでニュルブルクリンク24時間レースを走り、トラブルやアクシデント等なく、総合9位としてしっかりとチェッカーフラッグを受けられた時、言葉では言い表せない程、大きな感動があった。

しかも、私は乗車タイミング的に、この一大プロジェクト初年度のチェッカードライバーという大役を受けるタイミングとなり、特に最終ラップにニュルブルクリンク名物とも言える『カルーセル・コーナー』(世界一の難コースと言われるニュルブルクリンク北コースの“ノルドシュライフェ”でも最も低速なコーナーの一つで、内側がコンクリートにて舗装されたバンク(傾斜)になっているのが特徴)を走り抜けるときは、心臓が止まるような強烈な感動と緊張感が有ったことを今でも深く覚えている。

本当にNISMOの皆様には感謝しきれない程、心から感謝をしており、今後も日産・NISMOのレース活動や各イベント等の発展が個人的にはとても楽しみだ。

当件の考えも、自分の正しいと思える思考からだ。やはり、私は今、日産車でレースをしておらず、おそらく、近年する予定も直感的にはない。それは、私はD'station Racingのチームマネージングディレクターとしてチーム運営・経営もある現状で、我々のチームはインポートメーカーであるアストンマーティンとの契約があり、今年も彼らをパートナーとしてレースをするからだ。それらを客観的に考えると、胸を張って日産ドライバーと言える立場ではなく、適任ではないと自分自身が多く感じていた。実は昨年も契約時に同じ契約解除のご相談をさせて頂いた経緯もあるし、とても良い意味で良い決断だと自身では認識している。

特に、今年は、この新たな挑戦によりスケジュール調整も流動的であり、年間契約の仕事の場合、責任どころか迷惑を掛けてしまう恐れも十分にある。コロナ禍の状況下において、海外との渡航制限が更に加速する場合、スペインかどこか、ヨーロッパにでも住もうかとバックアッププランも考えている。だから、今自分が関わる全ての仕事に関しても、全てリモート化を進めている。

他にも2021年に向けて新たな決意をした変化がある。一言で言うと「スポンサー支援を受けないという事」。私は特にプロレーシングドライバーとなった20代中盤以降、前途したような別の仕事のウエイトは、ほぼゼロにして、当然ながらプロレーシングドライバーとしての業務や、それに関連する様々な仕事を全力でやってきた。いや全開という表現の方が正しいかもしれない。そして、車に関する様々なステージで出会い、私を気に入って頂き、レース活動を多くの方々の会社にパーソナルスポンサーとして長くご支援を頂いた。レーシングドライバーは、レースの契約金、メーカーとの契約金、イベント等の出演費、パーソナルスポンサー契約金等が、事業という点では主なる収益だ。国内や海外のお世話になる方々から「サポートするよ」と言って頂き、多いときは10社~15社位のパーソナルスポンサー支援をして頂いた。本当にこれも感謝以外の何ものでもない。平均すると1社150万円~300万円、多い会社には他の業務を含めると1000万円以上の契約金を頂いてきたので、パーソナルスポンサー支援だけでも数千万円もの契約金を毎年サポートして頂いてきた経緯がある。

もちろん、ただ、スポンサーとしてレーシングスーツやヘルメットにステッカーを貼っても、大したメリットなど出せないので、それぞれ、私なりにビジネスに繋がる話や、各社に合うご提案はさせて頂いてきたつもりだ。何度も述べるが、私は若い時から、仕事には責任感を持っている。そして、対価が合わないのに金銭をもらうのが嫌だ。もちろん、そこに対価以上の何かがあればOKだとも思うが、この2月1日から私はこの点でも視点を変えた。

新たな挑戦は全てがワクワクする。いい意味で新たな一歩にワクワクしている

これもこれから自分がやっていく事、プロレーシングドライバーとしての活動やチーム運営・経営者として、また他のビジネスもいくつも考えているし、現在進めているものも多く、時間的な都合や、海外渡航等も含めて、何となくこの選択を自分なりに決断した。

だから今日、2021年2月1日。私はとても身が軽く、いい意味で新たな一歩にワクワクしている。

だから今の気持ちは、新聞配達を始めた小学5年生の頃や、突然の上京を直感的に決意した20歳の頃と同じだ。決意という小さなアクションから変化への大きなインスピレーションを感じている。いや良い匂いが既にしていてワクワクが止まらない。まるでポルシェのエンジンの特徴である『水平対向自然吸気のNAエンジンを1万回転近くでぶん回しているかのような、高いテンションが続いている』。しかし、私が今後に目指す人生とは、これとは対照的だ。『大排気量で更にターボチャージャーまでも搭載する、エンジンをぶん回さなくても、力強いトルクでどっしりと鋭い加速をして、安定して高いスピードを維持できる、ターボエンジンのような人生を歩みたいし、そう目指していきたいとも考えている』。

だから、今日からはやりたいと思う事を今まで以上に好きにやっていくと決めた。このコラム公開の後、直ぐに私はドバイへ飛び、アジアン・ル・マン・シリーズに参戦する為、約2週間はドバイで生活をする。その後、約1週間はアブダビで生活をする予定になっている。そして、日程が移動したが、中東から帰国して、2週間の自主隔離期間が過ぎた翌日からアメリカ・フロリダへ飛び、WEC世界耐久選手権シリーズの開幕戦であるセブリングへ行き、プレシーズンテストと開幕戦を迎える予定になっていた。

現在のコロナ禍により、WEC参戦チームやメーカーの拠点がヨーロッパである事から、アメリカへの渡航制限や様々なロジスティクスのリスクなどが考慮され、WECの開幕戦は3月30日~31日のプレシーズンテスト及び、4月1日~4日の開幕戦はポルトガル・ポルティマオで開催される事になった。

私は、ただプロレーシングドライバーとしてWEC世界耐久選手権シリーズに参戦するのではなく、チーム運営・経営においても様々なやり取りがある。もちろん、この契約までの間も約2年位の時間を掛けて、このプロジェクトが最もコンペティティブでコストバランスも含めたすべてに対し、バランスの取れたプロジェクトになるよう、メーカーや主催者との交渉等を水面下で進めてきたのだ。

このWECに関して、私は最高のタイミングと述べた。本当に絶妙に今だと思っている。いや、今やらはければならない、英語で言えば、『Want』や『Should』ではなく、明確な『Must』だ。それは、正に男の約束と決意。私の人生のタスクの大きなひとつだと自ら認識している。だから前途した通り、様々な決意に対して、自身の決断やけじめも必要だと思っているし、それらに何一つの悔いも無い。

また、これを機会に自身の仕事のスタイルも変えようと思っているし、新たな変化をするのに最高に良い時期だとも思っている。もちろん、プロレーシングドライバーとしてはレースに勝ちたいし、結果が欲しい。チームマネージングディレクターとしては、このプロジェクトを必ず成功させたい。

ただ、成功という言葉は誤解が無いようにして頂きたい。成功とは、一つの言葉であり、成功とは他人が決める事ではなく、当事者が目的を達成したり、満足した時が成功だと私は考えている。

私はこのWEC世界耐久選手権シリーズ参戦にあたり、様々な目標とステップを考えている。私が最高に良い時期だと考えているのは、当プロジェクトの主人公と言える、D’station Racingチームオーナーでありジェントルマンドライバーとしても目標に向け活躍を続ける星野敏氏のタイミングでもあるし、自社エントリーへの課題も事実としてある事を知っていた。このコロナ禍において私が述べる『Must』とは、私の『男の決意と約束、常に少し大きなコミットメントと有言実行で生きてきた』。このプロジェクトに関しても同じだ。私は必ず有言実行をしたいし、後のコラムで書くだろうが、その為に、数年前から水面下で様々な準備とアクションを進めてきた。

そして、私がイメージしていたWECの将来の状況もある。私はLMGTEクラスの将来は不透明だと直感的に数年前から感じていた。そうなるとLMGTE-amの将来は更に不透明だと直感的な感性として感じていたし、今でもそう思っている。

究極の押し売りネゴシエーション

実は、表には公言をしていないが、私はD’station Racingとして、2019年-2020年アジアン・ル・マン・シリーズの後(正確にはシーズン中の第2戦オーストラリア後の1月末)に、FIA(国際自動車連盟)に2020年4月のWECスパ戦とル・マン24時間のエントリーネゴシエーションを行った。もちろん、ル・マン24時間のエントリー権利は非常にハードルが高く、ACOが主催するヨーロッパ・ル・マン・シリーズやアジアン・ル・マン・シリーズの成績上位者(クラスにより異なるが1台~複数台)及び、アメリカに関しては、IMSAとACOとの長い関係により、アメリカン・ル・マン・シリーズが幕を閉じた後も、IMSAからの枠として、数枠ル・マン24時間へのエントリー権利を得られるチャンスがある。

そんな中、アジアン・ル・マン・シリーズの終了後に、私はFIAやACOへ我々からの明確なアクションとして、実際に出る枠を得ていない、第88回ル・マン24時間へのエントリー申請を行った。これは、約束の決まっていないレースに無理やりエントリー申請をするようなバカげた話とは誤解をしてほしくはないが、可能性レベルと、先への展望を含めて、前途した通り、2020年のWECスパ戦とルマン24時間のエントリー申請を実際に行った。更にそのエントリー申請だけで1千万円以上の送金も完了した。それは本気のネゴシエーションであるし、嘘ではなく我々の決意は伝わると思っていた。そして、2020年は状況的に難しくても、必ず2021年にWECへD’station Racingとしてエントリーしたいと強く決めていたからだ。それは『星野敏チームオーナーの夢であり、D’station Racingとして自社チーム創設時より大きな目標として掲げていた明確なステージのひとつだ』。

特に世界耐久選手権である、WECはとてもハードルが高く、どんなチームか、どんなチーム母体か分からない者に対して、エントリー申請など受け付けてくれるわけもないし、気持ちが優柔不断では欧州の人間が島国の日本人を相手にしてくれる訳もないと常に私は感じている。更には、私が少し予想を始めていた、WECやル・マン24時間の未来に変革期が急速に訪れているのもある。

それは言うまでもなく『LMDh規格』だ。 この新たなプロトタイププラットフォームの正式発表により、私は必ず世界中のメーカーがル・マン24時間へ再び集まり、その為にもWECで世界選手権を戦うルーティンワークが急速に進むと予想していたし、感じていた。そして、海外メディアの記事を見ていると、予想が的中と言えるほど多くのメーカーが現実的に将来のLMDhへの参戦ビジョンを表明し、コミットメントを始めた。それも単純に考えれば分かるし、私がもし自動車メーカーでマネージングディレクターを務めているならば、迷わず興味を示すだろうし、LMEGTに近いコストで実現できるLMDhの費用対効果はとても将来性がある。

そして、究極の歴史を持つ耐久レースであるル・マン24時間は、自動車メーカーにとって『Should』or『Must』のルーティンワークだと私は個人的に思っているし、ひとりのレースファンとしても、そうであって欲しいとの思いを伝えたい。

そして、私は実際にエントリー手続きを行っているから知っているが、エントリー交渉時はメーカーを通じた政治的なネゴシエーションは必要不可欠と言っても過言ではなく、特に島国の日本のチームなど、海外レース等に積極的に参戦をしない限り、ヨーロッパから見れば名前も実態も何も知るわけがない。

もちろん、レジストレーションにはチームやチーム母体の運営会社の会社謄本等の様々な情報も必要だ。幸いにも我々のチーム母体であり星野氏が代表を務めるNEXUSグループは、2019年6月期実績で年商3,263億の実績があり、海外から見ても財務状況を含めてしっかりとした企業であると理解をして頂けたであろう。そして、私は実際にイギリスをベースに、2020年4月のWECスパ戦へ向けたプログラムの構築を急ピッチで進めていた。

もちろん、この時点では2020年の第88回ル・マン24時間への参戦は、理論的にも可能性は限りなくゼロであるのが当然だが、私はFIAへの明確なアクションとして、2020年のスパ戦と2020年のル・マン24時間、そして、2021年のWECフル参戦をコミットメントして前向きなネゴシエーションを続けた。もちろん、我々がパートナーシップを締結するアストンマーティンは、他の、ポルシェやフェラーリに対して台数が少なく、エントリー台数のバランスという点においても有利に働くだろうと、私はポジティブに考えていた。だから未知数だがそれなりの自信を持ち、実際にヨーロッパとのやり取りを続けていたのだ。

そんな交渉の真っ只中にコロナウィルスの感染拡大が世界中に広がり、レースどころでは無い世の中になってしまった。

むしろ今はこうして昔話のように振り返られるが、実際にロックダウン中の4月~6月は、このまま無言の第三次世界大戦でも起きるのではと、私は感じていた。だからレースどころの世の中では無いし、我々も国内レースをはじめ海外レース、様々なメーカーイベント等が中止・延期となった。そして、コロナ感染拡大が少し好転したと思われた頃に、第88回ル・マン24時間の開催が9月に延期として実施される事が発表された。

FIAの壁は想像を超えるほど厚かった

FIAの壁は想像を超えるほど厚かったが、前途したアクションやアストンマーティン社やアストンマーティンレーシングからの政治的ネゴシエートにも救われ、我々は何とかリザーブリストに名を刻んだ。しかもほぼ通常なら可能性が無いと言える最下位の10番目だ。ただ、このコロナ禍において撤退を相次ぐチームもあり、7月上旬にはACOより連絡があり、第88回ル・マン24時間への正式エントリーを得る事ができると連絡を頂いた。

理由は後のコラムでも述べるだろうが、我々はコロナ禍における総合的な判断として、このタイミングでの第88回ル・マン24時間への参戦をキャンセルした。そして、私が準備を進めていたイギリスを拠点としたプロジェクトチームも、一度、ウエイティングの決断を下した。星野氏にとっては、ようやく手に入った自社エントラントでのル・マン24時間参戦だったから、それはそれは苦渋の決断だったと思う。

メディア等でも紹介されているが、このWEC世界耐久選手権シリーズやル・マン24時間は、星野氏の大きな夢の一つである。もちろん、第87回ル・マン24時間にはパトリック・デンプシー氏がチームを率いるポルシェの名門チームのプロトンコンペティションから出場したという点では、既にル・マン24時間に参戦しているし、もちろん私もプログラムマネージャーとして現地に同行していた。

それは、2018年にWEC世界耐久選手権の富士戦へスポット参戦をしてポールポジションの獲得で注目を浴びたレースからの前進でもある。この挑戦も私は星野氏に言わずに動いてきた交渉であり、これも少し大きなコミットメントと有言実行の一つだと思っている。

常に少し先の目標設定と、その実現、そして、それらを掴んでいくプロセスほど楽しいものはない。もちろん、失敗もあるし、悔しい思いもある。

その前に、星野氏と私の関係を紹介するのを忘れていた。既に次のコラムでご紹介する予定で下書きを始めているが、私は2009年にフェラーリF430GTでSUPER GTへ参戦していた頃、フェラーリ社の公式ドライビングスクールである「ピロタ・フェラーリ」の認定インストラクターも務めていたが、この富士でのイベントで私の担当グループの参加者だった星野氏とのご縁が始まった。

この出会いの後、星野氏にとって初めてのサーキットデビュー、そしてレースデビュー、ポルシェ・カレラ・カップでの数々の勝利や2度のシリーズチャンピオン獲得。そして、スーパー耐久シリーズへの参戦や海外レースへの挑戦、更にはWEC世界耐久選手権への挑戦。モータースポーツをゼロからスタートし、ジェントルマンドライバーとしてル・マン24時間レースへ出場する迄のプロセスには、様々な苦労や努力がある。

また、これらのレース活動と並行して、事業経営においても急速なスピードで事業を拡大されたストーリーも私は身近で見させて頂いた。初めてお会いした時は、確か年商800億円の会社だったが、実に、この約10年の間に年商3200億を超える業界のリーディングカンパニーへと事業経営も拡大された。その起爆剤とも言える、レースに関する数々のサクセスストーリーを、次号でご紹介するつもりだ。

そして、重複するかもしれないが、私はこのコラムでは、やりたい事、やって行く事を、自由に発信していくと再度述べたいと思う。私は今いくつものやりたい事、チャレンジしたい事がある。今年は更に自由に全てにチャレンジすると決めたので、もう少し形にしてからコミットメントをしたいと思うが、とても面白いアイデアだと思うし、じっくりと事業化を煮詰めてフル加速できるように軸足を整えたいと思っている。

では、私にとって記念すべき初のコラム(執筆)を終えたい。振り返ると何を書いたか分からないレベルで200%の集中力で頭からくる情報をキーボードを通じて表現した。とても長いし、読み辛いかもしれないが、最後まで目を通して下さり、読んで頂いた貴方にとても感謝をしている。レースレポートや車両開発レポート、電子メールや、ビジネスのプロポーザルは何度も書いた事があるが、自分の思考を文字としてこれほどに集中して書いたのは、実は初めてだ。今は少し達成感に満ちている。

それでは、今週からはドバイへ飛び、2021年最初のレースであるアジアン・ル・マン・シリーズへ向けて出発したいと思う。次号は、3月上旬を目標に公開できるように、ドバイ・アブダビの長期滞在中にホテルで少しずつ書きたいと思っている。

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